▼親子関係、家族、恋愛の悩み

親子関係で悩んでいる人が増えています。何かぎくしゃくして、うまくいかないという人だけでなく、表面的には「良い子」として振る舞っている人も、実は親から支配され過ぎたり、親の期待に縛られたりして、息苦しさを感じ、人生が縮こまっているというケースが非常に多いのです。

 親婚関係の問題は、ともすると心理的な問題と思われがちですが、親子のつながりというのは、それ以前に、生理的、生物学的なものです。その点を理解しておかないと、問題の本質を見誤ってしまいます。

 そうした観点で、とても重要で、かつ、役立つのが、愛着という観点です。親子関係がうまくいっていない人です、それが、他の対人関係にも及んでしまいやすかったり、ストレスに敏感で、傷つきやすかったり、ネガティブになりやすかったりするのですが、その理由も、愛着というメカニズムを知ると、理解しやすくなります。

 ここでは、愛着を知るための入門として、岡田尊司の著書『愛着障害 子ども時代を引きずる人たち』(光文社新書)から、愛着についての基本的な説明の部分を紹介しましょう。同書は、発売以来、多くの読者から支持され、発行部数が六万部を超えるロングセラーとなっています。

 

 

 

はじめに 本当の問題は「発達」よりも「愛着」にあった!

 人間が幸福に生きていく上で、もっとも大切なもの━━それは安定した愛着である。愛着は、人格のもっとも土台の部分を形作っている。人はそれぞれ特有の愛着スタイルをもっていて、どういう愛着スタイルをもつかにより、対人関係や愛情生活だけでなく、仕事の仕方や人生に対する姿勢まで大きく左右されるのである。

 安定した愛着スタイルをもつことができた人は、対人関係においても、仕事においても高い適応力を示す。人とうまくやっていくだけでなく、深い信頼関係を築き、それを長年にわたって維持していくことで、大きな人生の果実を手に入れやすい。どんな人に対してもきちんと自分を主張し、同時に不要な衝突や孤立を避けることができる。困ったときは助けを求め、自分の身を上手に守ることで、ストレスからうつになることも少ない。人に受け入れられ、人を受け入れることで、成功のチャンスをつかみ、それを発展させていきやすい。

 従来、愛着の問題は、子どもの問題、それも特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かった。しかし、近年、愛着の問題は、一般の子どもにも当てはまるだけでなく、大人にも広く見られる問題だということがわかってきた。しかも、今日、社会問題となっているさまざまな困難や障害にかかわっていることが明らかとなってきたのである。

 うつや不安障害、アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症、境界性パーソナリティ障害や過食症といった現代社会の病患とも言うべき精神的なトラブルの多くにおいて、その要因やリスク・ファクターになっているだけでなく、離婚や家庭の崩壊、虐待や子育ての問題、未婚化や社会へ出ることへの拒否、非行や犯罪といったさまざまな問題の背景の重要なファクターとしても、クローズアップされているのである。

 さらに、昨今、「発達障害」ということが盛んに言われ、発達障害が子どもだけでなく、大人にも少なくないことが知られるようになっているが、実は、この発達の問題の背景には、かなりの割合で愛着の問題が関係しているのである。実際、愛着障害が、発達障害として診断されているケースも多いのである。

 筆者は、パーソナリティ障害や発達障害を抱えた若者の治療に、長年にわたってかかわってきたが、その根底にある問題として、常々感じてきたことは、どういう愛情環境、養育環境で育ったのかということが、パーソナリティ障害は言うまでもなく、発達障害として扱われているケースの多くにも、少なからず影響しているということである。困難なケースほど、愛着の問題がからまっており、そのことで症状が複雑化し、対処しにくくなっている。

愛着が、その後の発達や、人格形成の土台となることを考えれば、至極当然のことだろう。どういう愛着が育まれるかということは、先天的にもって生まれた遺伝的要因に勝るとも劣らないほどの影響を、その人の一生に及ぼすのである。その意味で、愛着スタイルは、「第二の遺伝子」と言えるほどなのである。

 パーソナリティ障害や発達障害について、ある程度の知識をお持ちの方も、愛着という視点が加わることで、パーソナリティや発達の問題について、さらに理解が深まることと思う。直面している困難の正体が、一層はっきりと見えてくるに違いない。

なぜ、人に気ばかり遣ってしまうのか。なぜ、自分をさらけ出すことに臆病になってしまうのか。なぜ、人と交わることを心から楽しめないのか。本心を抑えてでも、相手に合わしてしまうのか。なぜ、いつも醒めていて、何事にも本気になれないのか。拒否されたり傷つくことに敏感になってしまうのか。

 愛着の問題は、対人関係のスタイルや親密さの求め方だけでなく、その人の生き方や恋愛や子育ての仕方、ストレスに対する耐性や生涯の健康にまでかかわっている。意識しないところで、知らずしらずその人の心理と行動を支配しているのである。他の生き方もできたはずなのに、なぜ、この生き方をしてきたのか。その問いに対する答えは、愛着の問題を理解したとき、氷解するだろう。

 新たな認識と自覚を踏まえた上で、どうすれば人生がもっと生きやすく、実り豊かなものになるのか、今抱えているさまざまな問題をいい方向に解決していけるのか、どうすれば、もっと幸福な人生に近づいていくことができるか。その問題を、もっとも根本的なところで左右するのが、愛着の問題をいかに克服し、安定した愛着スタイルをもつことができるかどうかなのである。そのために必要なこと、できること、ヒントになることをお伝えしたい。

 また、医療や福祉、教育などの領域で、さまざまな問題を抱えたケースにかかわっている専門家の方には、パーソナリティ障害や発達障害を抱えた人の支援において、これまで欠落しがちであった視点を提供したいと思う。パーソナリティ障害や、複雑化した発達障害を改善し、うまく対処していくためには、愛着という視点が是非とも必要なのである。うつや不安障害、依存症など、従来の疾患概念で捉えられている状態でも、通常の治療や対処では改善しにくいケースほど、愛着の問題がからんでいるのである。ある意味、これまでの働きかけがうまく機能してこなかったとすれば、この視点が抜け落ちていたからにほかならない。実際、本論を読み進めていくなかで、これまでの疾患概念で捉えきれなかった、不可解で対処が難しいとされる状態の多くが、愛着の障害に由来したものであることを理解されるだろう。愛着という視点を持つことが、問題をより立体的な奥行で把握し、本当に必要とされている対処を見誤らないためにも不可欠なのである。

 

第一章    愛着障害と愛着スタイル

 

1.   愛着とは何か

あなたの行動を支配する愛着スタイル

人の顔色をすごく気にしてしまい、気疲れしやすい。自分なんかいらないと言われないか、いつも不安がある。対立したくないので、つい相手に合わせてしまう。そういった対人関係に過敏な人は少なくないだろう。一方、人と親しい関係になるのがわずらわしい。結婚して縛られるのはイヤ。仕事の付き合いはするけど、それ以上のかかわりはない。といった対人関係が表面的で、深まりにくい人も増えている。

そうした対人関係のパターンを、知らず知らずに支配しているのが、その人の愛着スタイルだと考えられるようになっている。愛着スタイルは、その人の根底で、対人関係だけでなく、感情や認知、行動に幅広く影響していることがわかってきた。パーソナリティを形作る重要なベースとなっているのである。

愛着の研究は、まず子どもの愛着障害から始まったのだが、今では、大人においても愛着が果たす役割の重要性に注目が集まっている。実際、安定した愛着スタイルをもつことは、良好な対人関係に恵まれやすいだけでなく、家庭生活での幸福や社会生活での成功にも大きく関与しているのだ。

困ったことがあると、すぐ人に相談したり、助けを求めたりする人。逆にどんなに困っていても、なかなか人にそのことを打ち明けたり、ましてや援助を頼むと言うことが言いだせない人。気軽に甘えたり、すぐ相手と親しくなれる人もいれば、何年顔を合わせていても、いっこうに親密さや距離が縮まらない人もいる。こうした行動の違いを生み出しているのも、愛着スタイルが大きく影響しているのである。

愛着スタイルとは、他者とつながり、相手から慰めや支えを得ようとしようとしたりする行動だけでなく、自分が助けや慰めを求めたときに、相手がどう応じるかについて、どんな期待をもち、どれだけそれを当てにしているかという心理的な面にも関係する。

親や配偶者さえ当てにならず、助けを求めても傷つけられるだけだと思っている人と、友達はみんな自分のことを心配して、助けてくれると信じている人とでは、当然行動も違ってくるし、その違いは、親しい人との関係だけでなく、対人関係全般に及ぶことになる。

安定した愛着スタイルの持ち主は、相手が助けになってくれると信じきっているので、実際にすぐに助けや慰めを求め、それを得ることができる。しかし、不安定な愛着スタイルの人では、そんなことをすると拒絶されるのではないかと不安になって、助けを求めることをためらったり、最初から助けを求めようとはしなかったりする。あるいは、助けを求めても、求め方がぎこちないため、相手を苛立たせてしまったり、肝心なことを切りだせなかったりして、結局、あまり効果的に相手から助力を得ることができにくい。

その人の愛着スタイルというのは、最初は母親とのかかわりを出発点として、養育や教育にかかわる、その人にとって重要な他者との関係の中で、長い年月をかけて培われていく。

大人の「愛着障害」を理解するためには、まず、愛着とはどういうもので、どのように形成されるのか、愛着に問題があると、まず子どもの頃、どういう形で表れやすいのかを、あらまし知っておく必要がある。本章では、愛着と愛着に生じる障害について、基本的なことをみていこう。

 

抱っこからすべては始まる

人は、生まれるとすぐに母親に抱きつき、つかまろうとする反射を備えている。逆に言えば、育っていくためには、つかまり、体を触れ、安らうことができる存在が必要なのである。そうしたことの重要性が知られていなかった当時、孤児となった子どもは、スキンシップの不足から、食欲が低下し、衰弱死してしまうことが多かった。子どもが成長するうえで、抱っこをすることは、乳を与えることと同じくらい重要なのである。いくら栄養を与えても、抱っこが不足すれば、子どもはうまく育たないのである。

抱っこをし、体を接触させることは、子どもの安心の原点であり、愛着もそこから育っていく。抱っこをすることで、子どもから母親に対する愛着が生れるだけでなく、母親から子どもに対する愛着も強化されていく。何らかの理由で、あまり抱っこをしなかった母親は、子どもに対する愛着が不安定になりやすく、子どもを見捨ててしまうという危険が高くなることが知られている。

子どもが泣くと、すぐに抱っこする母親では、子どもとの愛着が安定しやすいが、放っておいても平気な母親では、不安定な愛着になりやすい。

抱っこという実に原始的な行為が、子どもが健全な成長を遂げる上で、非常に重要なのである。それは、心理的な影響というだけでなく、生理的な影響さえ及ぼすのである。抱っこすることは、子どもの成長を促す成長ホルモンや神経成長因子、免疫力を高める物質、さらには、心の安定に寄与する神経ホルモンや神経伝達物質の分泌を活発にするのである。

抱っこは、スキンシップという面と、支え、守るという面が合わさった行動である。よく抱っこされた子は、甘えん坊で、一見弱々しく見えて、結局、強く、たくましく育つのである。その影響は、大人になってからも持続するほどである。

 

特別に選ばれた存在との絆

スキンシップは、生命にかかわるほど重要なのだが、愛着という現象は、単に抱っこやスキンシップの問題にとどまらない。愛着が成立するうえで、極めて重要なもう一つの要素がある。

かつて、進歩的で合理的な考えの人たちが、子育てをもっと効率よく行う方法がないかを考えた。その結果、一人の母親が一人の子どもの面倒を見るのは、無駄が多いと言う結論に達した。それよりも、複数の親が、時間を分担して、それぞれの子どもに公平にかかわれば、もっと効率が良いうえに、親に依存しない、自立した、もっと素晴らしい子どもが育つに違いないと考えたのである。

その「画期的な」方法は、さっそく実行に移された、ところが、何十年も経ってから、そうやって育った子どもたちには重大な欠陥が生じやすいことがわかった。彼らは親密な関係をもつことに消極的になったり、対人関係が不安定になりやすかったのである。さらにその子どもの世代になると、周囲に無関心で、何事にも無気力な傾向が目立つことに、多くの人が気づいた。

これは、イスラエルの集団農場キブツで行なわれた実験的とも言える試みの教訓である。効率本位な子育ては、愛着という重要な課題を、すっかり見落としてしまっていたのである。こうした弊害は、幼い子どもだけでなく、大人になってからも不安定な愛着スタイルとして認められた。ただし、同じようにキブツで育っても、夜は両親と水入らずで過ごしていた場合には、その悪影響は、かなり小さくなることも明らかになった。

この「実験」が示す重要な結論は、愛着における不可欠な要素の一つは、愛着の対象が、選ばれた特別の存在だということである。これを「愛着の選択性」という。愛着とは、ある特定の存在(愛着対象)に対する、特別な結びつきなのである。愛着対象は、その子にとって特別な存在であり、余人には代えがたいという性質をもっている。特別な存在との間には、見えない絆が形成されているのである。それを「愛着の絆」と呼ぶ。

いくら多くの人が、その子を可愛がり、十分なスキンシップを与えても、安定した愛着が育っていくことにはならない。特定の人との安定した関係が重要なのであり、多くの人がかかわり過ぎることは、逆に愛着の問題を助長してしまう。施設で育った子どもが、愛着障害を抱えやすい理由は、絶対的な愛情量の不足ということ以外に、複数の養育者が交替で関わるという事情にもよる。実の親に育てられた場合でも、みんなから可愛がられるというので、母親があまり可愛がらなかった子どもが、愛着の問題を抱え、後年、精神的に不安定になるということは、しばしば経験する。

 

 愛着の形成と臨界期

その意味で、愛着の形成とは、特別に選ばれた人物との関係が、不動のものとして確立する過程だとも言える。その選択において、もっとも重要な時期が、生後半年から一歳半ごろの一年間だとされ、「臨界期」と呼ばれる。

新生児のときから、すでに愛着の形成は始まっているが、まだそれは原初的な段階にある。母親を少しずつ見分けるようになるものの、生後六か月までであれば、母親が他の人に変わっても、あまり大きな混乱は起きない。新しい母親に速やかになじんでいく。ただし、この段階でも、養育者が交替すると、対人関係や社会性の発達に影響が及ぶこともわかっている。結ばれ始めた愛着がダメージを受けると考えられる。

六か月を過ぎる頃から、子どもは母親をはっきりと見分け始める。ちょうど、人見知りが始まる頃だ。それは、愛着が本格的に形成され始めたことを意味している。生後六か月から生後一歳半くらいまでが、愛着形成にとって、もっとも重要な時期とされる。この時期を過ぎると、愛着形成はなかなかスムーズにはいかなくなる。二歳を過ぎて養家にやってきた養子が、懐くのに苦労しやすいのは、そのためである。この時期に母親から離されたり、養育者が交替したりすることは、愛着が傷を受けやすいということにもなる。

愛着がスムーズに形成される上で大事なことは、十分なスキンシップとともに、母親が子どもの欲求を感じとる感受性をもち、それに速やかに応じる応答性を備えていることである。いつもそばで見守ってくれ、必要な助けを与えてくれる存在に対して、特別な結びつきをもつようになるのだ。求めたら応えてくれるという関係が、愛着を育む上での基本なのである。この時期、母親はできるだけ子どもの近くにいて、子どもが求めたときに、すぐに応じられる状態にあることが望ましい。

 

愛着の絆と愛着行動

一旦、愛着の絆がしっかりと形成されると、それは容易に消されることはない。愛着のもう一つの重要な特性は、この半永久的な持続性である。しっかりと結ばれた愛着の絆は、どんなに遠く離れていようと、どんなに時間を隔てていようと、変わらずに維持される。愛着の絆の切ないまでの純粋さは、しばしば感動的である。『母を求めて三千里』のマルコ少年の姿を、われわれは原作よりも、アニメで見て、心に焼き付いている人も多いのではないか。イタリアのジェノアから、母親に会うために、はるばるアルゼンチンまで一人で旅をするマルコ少年の姿に、人々が感動するのは、われわれも同じような気持ちをもっているからだろう。

愛着の絆で結ばれた存在を求め、そのそばにいようとする行動を、愛着理論の生みの親でイギリスの精神科医ジョン・ボウルビィは、「愛着行動」と呼んだ。「ママ」と呼びながらべそをかくのも愛着行動ならば、マルコ少年の大旅行も愛着行動だと言える。

母親に対する愛着は、さまざまな傷を受けたり、考えないように抑え込むことによって、日々の生活の中に埋没し、愛着行動も抑制されているが、心の奥底の部分では、子どもの頃とそれほど変わらない絆が維持されている。斉藤茂吉という歌人の『赤光』という歌集には、「死にたまふ母」と題された五十九首の短歌が収められているが、そこには、母危篤の知らせを聞いて、母に一目会いたいと、山形の故郷に駆けつけるところから、母に付きっ切りで看病した末に、その最期を看取り、焼き場で母のお骨を拾い、母のいなくなった故郷の自然を前に、悲しみをかみしめているところまでが、切々と歌われている。

「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただいそげる」

「死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞こゆる」

「我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし()()らひし母よ」

 貧しい一家に生まれた茂吉は、十四歳のとき、山形から一人東京に出て、病院を経営する斉藤家の世話になって大学に進み、医学を学んだ後、学資を出してくれた斉藤家の養子となっていた。養父母の手前、田舎の母親のもとに帰ることも、普段は遠慮していたであろう。長年心に抑えてきた思いが、母危篤という知らせとともに、堰を切ったようにあふれ出たと言えるだろう。

 『赤光』が茂吉の処女歌集として刊行されると、ことに「死にたまふ母」は、多くの反響と感動を呼び、それまで無名だった茂吉は、一躍歌人として注目される存在となる。

 「死にたまふ母」の中で、とりわけ心を揺さぶられるのは、一昼夜かけて焼いた母のお骨を拾う場面を歌った一首である。

「灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり」

母への限りない愛着と喪失の痛みが、おごそかな朝の光のなかに際立つのである。

 母親のお骨といえば、作家の遠藤周作氏が、亡き母親のお骨を音楽会に抱えて出かけたり、軽井沢の別荘につれて行って、一晩一緒に過ごしたというエピソードを、妻の遠藤順子氏が書かれている。遠藤氏の母親は、当時では珍しい女性ヴァイオリニストで、ヴァイオリンを教えて、二人の息子を育てられたそうだが、秀才の兄に比べて「落第坊主」だった遠藤氏を、「この子は見どころがある」といつもかばってくれたのは母親だったという。その母親との揺るぎない愛着が、幾多の苦難から遠藤氏を守ったに違いない。

そうした亡き人への態度と、たとえば、信長が亡き父親に見せた態度を比べてみれば、その違いは歴然としているだろう。信長は、父親の葬儀の席に、土足で上がり込むと、「死におって」と、焼香の灰を亡骸にむかって投げつけたと伝えられている。

そこにも、愛着がないわけではないが、信長と父親を愛着は、愛憎が入り混じった、非常に両価的で、不安定なものだったと言えるだろう。そこには、次に述べる愛着の傷が関係している。

 

愛着の傷と脱愛着

幸運な状況に恵まれれば、助けを求めたとき、母親(養育者)はすぐに必要なものや慰めを与えて、安心と抱擁で包むことで、子どもは母親との間に揺るぎない愛着を育むとともに、基本的安心感や基本的信頼感とよばれる、世界や他者が信じることのできるものだという感覚を育んでいく。この世界が安心できる場所だと感じ、人を助けとなってくれるものだと信じることができる感覚である。これは、物心つくよりも、はるかに以前の体験によって、脳の奥深くに組み込まれる。

ところが、不幸にも、助けを求めても、それに応えてくれなかったり、その反応が不安定であったりすると、愛着が不安定なものになるだけでなく、基本的安心感や基本的信頼感というものも、うまく育まれない。この時期に育まれ損なってしまうと、後から修正することは非常に難しい。

愛着を脅かす、もっとも深刻な状況には、二つある。一つは、愛着対象がいなくなる場合である。死別や離別によって、乳幼児期に母親がいなくなるという状況は、幼い子どもにとって、世界が崩壊することにも等しい過酷な体験である。そうした体験に遭遇した子どもは、まず泣き叫び、母親を探し出そうとし、自分の求めに応えてくれないことに、悲しみと怒りを爆発させる。現実を受け入れることができず、それに抗議しようする。「抵抗」と呼ばれる段階である。

そうして数日を過ごし、母親が戻ってこないとわかるにつれ、表立って泣き叫ぶということはなくなるが、今度は、暗い表情で片すみにうずくまり、意気消沈して、無気力な状態を示し始める。好きだった遊びにも触れようとせず、他の誰にも関心を示さない。食欲も落ち、睡眠も妨げられることも多い。成長が止まってしまうこともある。この抑うつ的な段階は、「絶望」と呼ばれる。

さらに数か月がすぎて、その時期を乗り越えると、母親の記憶は封印され、何事もなかったかのように、落ち着いて生活するようになる。「脱愛着」の段階に達したのである。周囲はほっとするが、そのために子どもが払った犠牲は、果てしなく大きい。生存のために、子どもは母親への愛着を切り捨てるというぎりぎりの選択をしたのである。

まだ幼く、大人の保護に頼ってしか生きていくことができない時期においては、愛着の絆が強く持続しすぎることは、生存にとってむしろ不利に働いてしまう。自分をどんなに可愛がってくれていた母親でも、いなくなってしまえば、いなくなった母親を求めつづけ、母親以外を拒否することは、死を意味する。子どもは究極的な選択として、母親を忘れ、新しい養育者を受け入れるという道を選ぶほかない。脱愛着を起こすことで、愛着対象を喪った痛みから逃れるしかないのだ。

たとえ、その後で母親がひょっこり現れたとしても、一旦脱愛着がおきてしまっていると、すぐには元の愛着状態には戻らない。まだ幼い頃であれば、次第に回復していくが、愛着が受けた傷は、完全には修復されない。その後、関係が冷やかとなったり、ぎくしゃくしたり、過度に気を遣ったりといった状況を生じる原因となり、大きな禍根が残りやすい。離別期間が長すぎる場合には、完全な愛着の崩壊が起こり、心の中で母親という存在を理想化し、憧れを抱くものの、実際に再会して一緒に暮そうとしても、うまくいくのは最初だけで、やがて強い拒絶反応が起きてしまうのが普通である。

 

親を求めるがゆえに

もう一つの不幸な事態は、守ってくれるはずの親から虐待を受け、安全が脅かされるという状況である。この場合、子どもは親を求めつつ、同時に親を恐れるというアンビバレントな状況におかれる。しかも、親がいつ暴力や言葉の虐待を加えてくるかわからないといった状況は、子どもにとって予測も対処も困難であり、ただ自分は無力で、悪い存在だという罪の意識や自己否定を抱えさせられてしまう。

どんな理不尽な仕打ちをされようと、子どもは親を愛している。親のことを求めようとするのだ。その結果、痛ましいことが起きてしまう。親を求めるがゆえに深く傷つき、その傷は、親を責めるのではなく、むしろ自分を責める方向に向かうのである。自分がダメな子だから、親は愛してくれないのだ。親は自分を否定するのだ。そう考えて納得しようとする。

外の世界を知り、親と自分との関係をもっと客観的に見るようになったとき、子どもは初めて、それが決して当たり前のことではないことに気づくのだが、それまでは、どんな日常も、子どもにとってはそれ以外にはない唯一無二の現実なのである。

親を求め、親に認められたいという気持ちは、それがほどよく満たされて育てば、大人になる頃には、あまり支配力をもたない。逆に、その思いを満たされずに育った人ほど、いくつになっても、心の奥底で親に認められたい、愛されたいという思いを引きずることになる。愛着障害を抱えた人では、大人になっても、そうした気持ちが解消されていない。親に過度に奉仕したり気に入られようとするか、求める気持ちが裏返って、親を困らせてたり、反発したりするという形で、こだわり続けるのである。

 

安全基地と探索行動

愛着という現象が、対人関係のみならず、それ以外の幅広い能力の発達にもかかわってくるのには、愛着のもう一つの特性がかかわっている。

愛着の絆が形成されると、子どもは母親といることに安心感をもつだけでなく、母親がそばにいなくても次第に安心していられるようになる。安定した愛着が生まれることは、その子の安全が保障され、安心感が守られるということでもある。ボウルビィの愛着理論を発展させた、アメリカの臨床心理学者のメアリー・エインスワースは、愛着のこうした働きを、「安全基地」という言葉で表現した。

子どもは、愛着という安全基地がちゃんと確保されているとき、安心して、外界を冒険しようという意欲をもつことができる。逆に、母親との愛着が不安定で、安全基地として十分機能していないとき、子どもは安心して探索行動を行うことができない。その結果、知的興味や対人関係においても、無関心になったり、消極的になったりしやすい。守られていると感じている子どもほど、好奇心旺盛で、活発に行動し、何事にも積極的なのである。

一歳半を過ぎる頃から、子どもは、徐々に母親から離れて過ごせるようになるが、ストレスや脅威を感じると、母親のもとに避難し、体を触れ合わせ、抱っこしてもらうことで、安全を確保し、安心を得ようとする。母親が安全基地として、うまく機能していると、子どもは安心して活発な探索を行い、知的にも、社会的にも、発達を遂げていく。

こうして、三歳ごろまでに、子どもは、一定期間であれば、母親から離れていても、さほど不安を感じることがないようになり、また、母親以外の人物とも、適度に信頼した関わりをもつことができるようになる。母親を主たる愛着対象、安全基地として確保しながら、同時に、他にも従たる愛着対象や安全基地をもち、活動拠点を広げ始めるのである。

このことは、われわれ大人においても基本的に同じである。安定した愛着によって、安心感、安全感が守られている人では、仕事にも対人関係にも積極的に取り組みやすい。

子どもであれ大人であれ、無気力だったり、消極的だったり、前向きな努力から逃げてしまいがちだったりするとき、そこには愛着の問題がひそんでいることが多い。無気力で逃避的なことを責める前に、安心できる居場所という「安全基地」がまず確保されているかどうかを、考えて上げることが先決だろう。もし安全基地を与えるよりも、脅かすことをしているならば、その点を改めるだけで、事態は好転するだろう。

「安全基地」を確保している人は、外界のストレスにも強い。さらに言うと、幼い頃にしっかりと守られて育った人では、大人になってからも、自分を守ることができやすいのである。

たとえば、ある研究では、二歳の時点で親から十分なサポートを得られた人では、青年期に恋人に、気軽に頼ることができる傾向を認めている。逆に言えば、二歳の時点で、親からの支えが乏しかった子どもでは、恋人にうまく甘えられないということである。愛着スタイルや愛着の安定性が、なぜ、うつ病やアルコール依存症の発症リスクに関係しているのかは、この点と無関係ではない。

ただ気を付けたいのは、過保護になってサポートを与え過ぎ、子どもの主体的な探索行動を妨げたのでは、良い安全基地ではなくなるということである。安全基地とは、求めていないときにまで縛られ場所ではないのである。それでは、子どもを閉じ込める牢獄になってしまい、依存的で、不安の強い、自立できない子どもを育ててしまう。

 

ストレスと愛着行動の活性化

十分な安心が得られる「安全基地」が確保されていると、次第に「安全基地」から遠く離れていようと、あまり不安を感じることもなく、探索行動、つまり仕事や社会的な活動に打ち込めるようになる。安全基地は、いざというときの避難場所でもある。必要になった時にいつも応じてもらい、助けを与えてくれるという安心があれば、いつもすぐそばにいる必要はないのである。

しかし、何か特別な事態が生じて、ストレスや不安が高まったときには、愛着行動が活発になる。それが健全な状態であり、自分を守るために重要なことである。

愛着行動には、さまざまなヴァリエーションがある。小さい子どものように、愛着している人物と一緒にいようとしたり、体に触れようとしたりといった直接的な行動だけでなく、愛着する人物について考えたり、かつて相手が言ってくれたり、してくれたことを思い出したりする精神内的な活動も含まれる。

かつてアウシュビッツなどの強制収容所に閉じ込められた人たちが、いかにして精神の平衡を保ったか。その点において、非常に重要だったのは、愛する人のことを回想することであったと、フランクルは『夜と霧』で述べている。フランクル自身、妻があたかもそばにいて、囁いてくれるだろう言葉を脳裏に思い浮かべることで、過酷な試練に耐え、生きながらえることができたのである。

愛着行動は、ストレスや脅威が高まった状況で、愛着システムが活性化された結果、誘発される。この愛着行動の誘発のされかたには、人によって大きな違いがあり、その違いに、各人の愛着スタイルの違いが、もっともはっきりと示される。

安定した愛着においては、ストレスや脅威に対して、愛着システムが適度に活性化され、ほどよく愛着行動が増加することで、ストレスの緩和や安定の維持に役立つ。

ところが、人によっては、ストレスや脅威を感じても、愛着行動がほとんど見られないという場合がある。そうしたケースでは、愛着システムの不活性化が起きていると考えられる。通常なら愛着行動が高まる場面でも、愛着システムが活性化されないのは、愛着システムができあがる頃に、愛着行動を抑えた方が、生き残りに有利だった結果、不活化戦略をとるようになったためだと考えられる。

つまり、愛着を求める行動をとっても、拒絶されたり、何の反応もかえってこないことが繰り返されると、愛着行動を続けることは、余計傷を受けるだけであり、生存上不利である。その結果、最初から求めない行動スタイルを身につけたと理解される。

また、別の人では、ストレスや脅威に対して、過剰なまでの愛着行動が引き起こされる場合もある。このタイプの人では、愛着システムの過剰活性化が起きており、少しでも愛着対象が離れていきそうな気配を感じただけで、強い不安を覚え、大騒ぎをして、愛着対象がそばにいるほかないようにする。このタイプの人では、愛着システムが育まれる時期に、過剰活性化戦略が、自分の安全や安心を守るのに有利だった結果、そうした行動スタイルを身につけたと考えられる。たとえば、養育者の関心が薄く、大げさに騒いだ時だけ、かまってもらえたというような状況である。

もっと複雑な反応がみられる場合もある。ストレスや脅威が高まったときに、愛着行動とは一見正反対な行動が引き起こされる場合である。本当はそばにいてほしい人を拒否したり、攻撃したり、無関心を装ったりするという逆説的なパターンだ。これも愛着行動の過剰活性化戦略の一つだとも言えるが、こうした天邪鬼な反応は、本人にとっても不利益にしかならない非機能的なものであり、その根底には怒りがある。こうした逆説的な反応は、愛着の問題が深刻なケースほど強く、頻繁に見られる。愛着対象が何度も交代したり、虐待などで傷つけられ、求める気持ちと見捨てられることへの不安や怒りが、アンビバレントに同居する結果だと考えられる。

 

子どもの四つの愛着パターン

 これまで述べてきた、愛着に影響するいくつかの要素、愛着が安全基地としてうまく機能しているか、ストレスに対して、どういう愛着行動を行うか、によって、その子どもの愛着パターンはおおむね決まってくる。子どもに見られる四つの愛着パターンを知っておくことは、大人の愛着スタイルを理解するうえでも、非常に役立つ。

子どもの愛着パターンは調べるために、よく用いられるのは、発達心理学者のメアリー・エインスワースが開発した新奇場面法という検査である。この方法では、子どもと母親を離し、また再会させるという場面設定をして、そのときの子どもの反応を観察することで、愛着のパターンを分類する。エインスワースは、「安定型」、「回避型」、「抵抗/両価型」の三つに分類したが、その後、メインとソロモンが、「混乱型」と呼ばれる四番目のタイプを同定し、四つに分類されることが多い。安定型以外の三つのタイプは不安定型と呼ばれる。

 安定型は、母親から離されると、泣いたり不安を示すが、その程度は、過剰というほどではなく、母親が現れると、素直に再会を喜び、母親に抱かれようとする。約六割強の子どもは、この愛着パターンを示す。安定型では、母親が安全基地として、うまく機能しており、ストレスを感じたときに適度な愛着行動を起こしていると考えられる。

回避型では、母親から引き離されても、ほとんど無反応で、母親と再会しても目を合わせず、自分から抱かれようともしない。回避型は、安全基地をもたないため、ストレスを感じても、愛着行動を起こさないタイプだと言うこともできる。この愛着パターンは、一割五分〜二割の子どもに認められる。小さい頃から施設で育った子どもに典型的に見られるが、親の関心や世話が不足して、放任になっている場合でもみられる。回避型の子どもは、その後反抗や攻撃性の問題がみられやすい。

抵抗/両価型では、母親から離されると、激しく泣いて強い不安を示すのに、母親が再び現れて抱こうとしても、拒んだり、嫌がったりする。しかし、一旦くっつくと、なかなか離れようとしない。母親の安全基地としての機能が十分でないために、愛着行動が過剰に引き起こされていると考えられる。このタイプは一割程度に認められる。かまってくれる時と、無関心なときの差が大きいケースや、神経質で厳しく過干渉な親の場合が多い。抵抗/両価型の子では、その後、不安障害になるリスクが高く、また、いじめなど被害に遭いやすいとされる。

混乱型は、回避型と、抵抗型が入り混じった、一貫性のない無秩序な行動パターンを示すのが特徴である。まったく無反応かと思うと、激しく泣いたり、怒りを表したりする。肩を丸めるなど、親からの攻撃を恐れているような反応を見せたり、逆に親を突然叩いたりすることもある。混乱型は、虐待を受けている子や親がひどく不安定な子どもにみられやすい。安全基地が、逆に危険な場所となることで、混乱を来していると考えられる。親の行動が予測不能であることが、子どもの行動を無方向なものにしているのである。混乱型の子どもでは、その後、境界性パーソナリティ障害になるリスクが高いとされる。

 

統制型と三つのコントロール戦略

 もう少し年齢が上がって、四歳から六歳くらいの年齢の頃から、混乱型の中に、特有のパターンを示す子どもたちがみられるようになる。それは、子どもの方が親をコントロールするタイプで、攻撃や罰を与える行動で親をコントロールしようとする場合と、親の相談相手になったり、親をなぐさめてコントロールしようとする場合とがある。

 そんな小さいうちからと思われるかもしれないが、子どもによっては、わずか四歳頃から、親の顔色を見て、機嫌をとったり、慰めようとしたりという行動を示すのである。親が良くない行動をとったときや思い通りにならないときに、叩こうとするといった攻撃的手段に向かうことは、さらに早く、三歳ごろから認められる場合もある。

 このコントロール行動は、無秩序な状況に、子どもながらに秩序をもたらそうとする行動だと言えるだろう。その後の人格形成に大きな影響を及ぼすことが多く、重要である。

愛着からパーソナリティへの分化において、ひとつ重要な鍵を握るのは、相手をコントロールしようとする傾向が強いか弱いかということと同時に、どういうコントロールの仕方を好むかという点である。

不安定な愛着状態におかれた子どもでは、三、四歳の頃から、特有の方法によって、周囲をコントロールすることで、保護や関心が不足したり、不安定だったりする状況を補うようになる。それが統制型の愛着パターンと呼ばれるもので、当初、見られるようになるのは、攻撃や悪いことをすることによって、周囲を動かそうとするパターンと、良い子に振る舞ったり、保護者のように親を慰めたり、手伝ったりすることで、親をコントロールしようとするパターンである。そうしたコントロール戦略は、年が上がるごとに、さらに分化を遂げて、特有のパターンを作りだしていく。

それらは、大きく三つの戦略に分けて考えることができる。すなわち、支配的コントロール、従属的コントロール、操作的コントロールである。支配的コントロールは、暴力や心理的優越によって、相手を思い通りに動かそうとするものである。

従属的コントロールは、相手の意に従い、恭順することで、相手の愛顧を得ようとする戦略である。一見するとコントロールとは正反対に見えるが、相手に合わせ、相手の気に入るように振る舞ったり、相手の支えになったりすることで、相手の気分や愛情をコントロールしようとする。

操作的コントロールは、支配的コントロールと従属的コントロールが、より巧妙に組み合わさったもので、相手に強い心理的衝撃を与え、同情や共感や反発を引き起こすことによって、相手を思い通りに動かそうとするものである。

 

 良い子だったオバマ

バラク・オバマは、子どもの頃から、誰にでも合わせられる「良い子」だったことが知られている。彼は学校でも、一度も問題を起こすこともなかった。彼が自伝の中で、ドラッグやアルコールに依存した時期があったことを告白したとき、もっとも驚いた一人は、彼の担任だった教師である。そういう不安定で、反社会的な面は、一切見せなかったからである。彼は、「良い子」や「優等生」を演じきったのである。

実の母親は忙しく、彼にはあまりかまっていられなかった。彼の面倒を見たのは、ハワイでは祖父母だった。母親が再婚して、インドネシアにいたときには、彼は見知らぬ人間の中で、完全なエイリアンであり、疎外感を味あわずにはいられなかった。しかし、彼は、母親にほとんど反抗することもなく、母親に対しては、ひどく従順だった。

彼の従属的戦略は、学校での境遇によって、さらに強められた。学校で、彼はつねに極めつけのマイノリティだった。インドネシアの学校では、たった一人外国人だったし、ハワイの高校でも、たった一人の黒人だった。そうした中で、彼は周囲に適応するためには、従属的戦略を取らざるを得なかったとも言える。

 

 いずれのコントロール戦略も、不安定な愛着状態による心理的な不充足感を補うために発達したものである。この三つのコントロール戦略は、比較的幼い頃から継続して見られることが多い一方で、大きく変化する場合もある。

 また、相手によって、戦略を変えてるということも多い。それによって、バランスをとっているとも言える。

 ビル・クリントンは、母親に対しては、とても従順であったが、それ以外の女性に対しては、支配的で、うまく利用したり搾取しようとした。母親に支配されて育った人では、母親には従順だが、思い通りになる存在を見つけると、その人を支配するという傾向がみられることがよくある。それによって、心のバラスをとっているとも言えるし、自分がされたように、相手を扱うことを無意識のうちに行っているとも言える。いずれにしても、そうすることが有害な面をもつ一方で、安定に寄与しているのである。誰に対しても、従属的にふるまうことは、やがて行き詰まりを生んでしまう。

 ただ、問題は、上司や顧客、配偶者から受ける支配によるストレスを、より弱い存在に対して発散するという構造になっては、まずいということだ。しかも、現代社会では、最後の受け皿になってくれる祖父母のような存在も、身近にいなくなっている。

 

愛着パターンから愛着スタイルへ

小さい頃の愛着スタイルは、まだ完全に確立したものではなく、相手によって愛着パターンが異なることも多いし、養育者が変わったり、同じ養育者でも、その人の接し方が変わったりしても変化する。

そのため、この時期の愛着の傾向は、愛着スタイルとは呼ばずに、愛着パターンと呼んで区別するのが普通である。子どもにおいて調べることができる愛着パターンは、特定の養育者との間のパターンに過ぎず、まだ固定化したものではないのだ。母親とは不安定な愛着パターンを示す子どもでも、父親とは安定した愛着パターンを示すという場合もある。もちろん、その逆の場合も多い。祖父母と安定した愛着が見られる場合もあれば、まったく見られない場合もある。

両親と安定した愛着関係をもつことができれば、安定した愛着スタイルが育まれやすいが、親との愛着が不安定な場合でも、それ以外の大人や年長者、仲間に対する愛着によって補われ、安定した愛着スタイルが育つ場合もある。ただ、昨今のように人間関係が希薄になってくると、親以外との人間関係が乏しくなり、親との愛着がうまくいかないと、他で補われにくいという状況がある。

親を初めて、重要な周囲の年長者との間の愛着パターンが、積み重ねられる中で、十代初めころから、その人固有の愛着パターンが次第に明確になり、成人する頃までに、愛着スタイルとして確立されていく。

遺伝的な気質とともに、パーソナリティのもっとも基礎を作り、その人の生き方を気づかないところで支配しているのが、愛着スタイルである。愛着スタイルは、恒常性をもち、特に幼い頃に身につけた愛着スタイルは、七〜八割の人で生涯にわたって持続する。ある意味、生まれもった遺伝的天性とともに、第二の天性としてその人に刻み込まれるのである。それが、後天的な環境の産物であることを考えると、いかに重要かがご理解いただけるだろう。遺伝的天性を変えることはできないとしても、愛着という後天的天性を守ることは可能だからだ。

 

 愛着障害と不安定型愛着

愛着がもっとも深刻に障害されたケースでは、愛着をまったく求めようとしなくなったり、見境なく誰にでも愛着したりするようになる。愛着とは、先に述べたように特定の人に対する特別な結びつきである。特定の人に対して愛着行動を行おうとするのが本来であり、誰に対しても愛着を求めようとしない場合も、誰にでも愛着を求めようとする場合も、愛着形成に躓いているのである。

虐待やネグレクト、養育者の頻繁な交替により、特定の人への愛着が損なわれた状態は、反応性愛着障害と呼ばれ、不安定型愛着を示す状態の中でも、もっとも深刻な状態と考えられる。アメリカ精神医学会の診断基準を次ページに掲げる。

反応性愛着障害のうち、誰にも愛着しない警戒心の強いタイプを抑制性愛着障害と呼び、誰にでも見境なく愛着行動が見られる場合を脱抑制性愛着障害と呼ぶ。診断基準Aの(1)が目立つものが前者、(2)が目立つものが後者である。

抑制性愛着障害は、ごく幼い頃に養育放棄や虐待を受けたケースに認められやすい。愛着回避の重度なものでは、自閉症スペクトラムと見分けがつきにくい場合もある。脱抑制性愛着障害は、不安定な養育者からの気まぐれな虐待や、養育者の交替により愛着不安が強まったケースにみられやすい。多動や衝動性が目立ち、注意欠陥/多動性障害(ADHD)と診断されることもしばしばである。

最初、愛着障害が見出されたのは、戦災孤児の調査からであった。戦争で親を失い、施設に入れられた子どもたちが、成長不良や発達の問題を引き起こしたのである。それを最初に報告したボウルビィは、養子となった子どもや施設で育った子どもにも、そうした障害がしばしば認められることに着目し、愛着障害という概念を打ち立てた。

しかし、その後、実の親のもとで育った子どもにも、同様の問題が認められるようになる。虐待やネグレクトの急増とともに、愛着障害は、再度クローズアップされることになったのである。

 

三分の一が不安定型愛着を示す

だが、一般の児童にも対象を広げて研究が進むにつれて、意外な事実が明らかとなった。実の親のもとで育てられている子どもでも、当初考えられていたよりも高い比率で、愛着の問題が認められることがわかったのだ。安定型の愛着を示すのは、三分の二で、三分の一もの子どもが不安定型の愛着を示すのである。愛着障害と呼ぶほど重度ではないが、愛着に問題を抱えた子どもが、かなりの割合存在することになる。

さらに、成人においても、三分の一くらいの人が、不安定型の愛着スタイルをもち、対人関係において、困難を感じやすかったり、不安やうつなどの精神的な問題を抱えやすくなる。こうしたケースは、狭い意味での愛着障害に、もちろん該当するわけではないが、愛着の問題を抱えていて、それがさまざまな困難を引き起こしているのである。

狭い意味での愛着障害、つまり虐待や親の養育放棄による「反応性愛着障害」と区別して、本書では、単に「愛着障害」と記すことにしたい。広い意味での「愛着障害」は、筆者がこれまで提起している「愛着スペクトラム障害」と同義であり、不安定型愛着スタイルに伴って支障を生じている状態という意味である。

それにしても、三分の一もの人が不安定型愛着を示すということは、どういう意味を持つのだろうか。虐待やネグレクトが三分の一もの家庭で起きていると解されるべきなのだろうか? その問題については、次の章で考えるとして、ここでは、愛着の問題が非常に多くの人に関係する問題だということを理解していただければと思う。ご自分が、不安定型愛着を抱えているかもしれないし、恋人や配偶者や子どもや同僚がそうであるかもしれない。カップルのどちらかが不安定型愛着を抱える確率は、何と五十%を超えるのだ! さらに、三人の人がいて、そのうち一人でも不安定型愛着を抱えている可能性は、七割にも達する! 不安定型愛着の何者かを知らずに世渡りすることは、片目を眼帯で覆って車を運転するようなものだと言えるだろう。

 その後、積み重ねられてきた愛着の研究は、今では特別な子どもの問題を超えて、一般の子ども、さらには大人にも広く当てはまる真実を明らかにしてきている。愛着障害は、現代人が抱えているさまざまな問題にかかわっているばかりか、まったく健康なレベルの人においても、その対人関係や生き方の特性を、もっとも根底の部分で支配しているのである。

 

 

パーソナリティ分析 恋愛編』より

 

恋愛に迷う現代人

恋愛に悩みはつきものであるが、ことに最近は、出会い方も多様化し、選択肢やチャンスも広がっている分、恋愛の悩みや危険も増していると言えるだろう。

人付き合いが希薄化していることもあり、どんなふうに恋愛をすればいいのかわからないという人も少なくない。相手に気持ちを伝えたいのだが、どう事を運べばいいのか、恋愛の仕方がわからなくて困っているケースもある。適当に付き合っている人はいるが、本当にこの人でいいのか、迷って決められないというケースも多い。一緒にいると楽しいが、ちょっと気になる点があり、それをどう判断していいのかわからない。相手の態度が腑に落ちず、それをどう理解していいのか悩んでいるという場合もある。

今のパートナーと別れるべきかどうか迷っている人も大勢いる。本当に、この人とうまくやっていけるのか、自分にピッタリな人なのか、確信がもてない。もっと人生経験を積んだ人でさえ、こうした悩みを抱えているケースは意外に多い。苦労が本当に報われるのか、それとも、結局、徒労に終わるだけで、早く決着をつけた方がいいのか、それが見極められずに揺れているという状況にもよく出会う。

ところが、ひとたび恋愛関係になってしまうと、相手の良いところしか見えず、自分が陥ろうとしている落とし穴に気づかないか、薄々気づいていても見て見ぬふりをしてしまうこともある。未練や遠慮で、ずるずると決断を先延ばしして、大切な時間を無駄にしてしまうこともある。

二人の前途に、どんな将来が待ち受けているのか、五年後、十年後、二十年後に、自分たちの恋愛が、どういう結末を迎えているかを、ある程度、見通すことができれば、もっと冷静に判断できるに違いない。だが、今のところ、精々、占いに頼るか、友だちや先輩の、かなり無責任で主観的なアドバイスを聞くしかない。もう少し客観的な指針となるものはないのだろうか。そんな思いを、誰しも感じたことはないだろうか。

 

恋愛は飛行機を操縦するのと同じ

恋愛が難しさを増す一方で、近年、恋愛を真面目に考える人が増えている。中には、遊びと割り切っている人もいるだろうが、戯れのはずの恋が本気になるのも、また恋愛である。口先でどう言うにしろ、多くの人は、人生の伴侶となる存在に出会うことを、心のどこかで期待しながら、自分にふさわしい人との出会いを模索している。実際、伴侶選びは、一生を左右する重大事なのである。

私は長年にわたって、パーソナリティや心の問題に携わってきた。さまざまな精神的な悩みやトラブルを抱えた人が、精神的に行き詰まり、逆に、そこから回復していく過程にも立ち会ってきた。そうした中で、とみに感じるようになったことは、人生とは、その人自身の力だけで決まるものではないということである。

どういう人に出会うかによって、人生は、大きく左右される。素晴らしい可能性が開かれることもあれば、地獄の入口へと誘い込まれることもある。

とりわけ愛する人との出会いは、人生をバラ色にも灰色にも変える。自分にふさわしいパートナーと結ばれた人は、最初のうち苦労があったにしろ、次第にそれが報われ、充実した人生を歩むことができる。しかし、ふさわしくないパートナーに出会ってしまうと、人生を棒に振ってしまうほどの損失を蒙ることにもなりかねない。

人生において、それほど大切な伴侶探しであるにもかかわらず、それに対する方法論というのは、まったく偶然任せに近い。ましてや、恋愛のプロセスやふさわしいパートナーの選択について、きちんと学ぶ機会というのはほとんどない。光合成や鎌倉幕府、三平方の定理といったこと以上に、われわれの人生にかかわることなのに、教えてもらえるのは、精々性教育くらいである。

車の運転をしたり、ましてや飛行機の操縦をするのなら、それについて専門知識を身につけ、十分なトレーニングを積むのは当然のことだろう。恋愛し、伴侶を選び、幸福な愛情を育んでいくことは、ある意味、車を運転するよりもずっと難しく、飛行機を操縦するくらいの技量を要することである。一つ間違えれば、墜落して、命を失ってしまうことだってあるのだ。安全にそれを行うためには、不測の事態も計算に入れながら、危険を避け、乗りこなす知識と技術が必要なのである。もう少し恋愛というものについて、体系的に、客観的な判断の基準となるようなものがないものだろうか。それは、一般教養や衛生知識に劣らず、自分を守り、人生の価値や質を高める上で、非常に大切なことに思えるのである。

 

恋愛を科学的に扱う方法

人生を大きく左右する恋愛という営みにおいて、もう少し科学的な論拠に基づいた、見通しをもつことはできないだろうか。もう少し信頼できる見地から、客観的な指針やアドバイスを提供できないものだろうか。

そうした期待に対して、今日の精神科学、心理学が提供できる、もっとも優れた有用性と高いポテンシャルを備えた方法の一つと考えられるのが、パーソナリティ理論に基づく行動心理分析や対人関係分析であり、パーソナリティ分析と呼ぶ手法である。本書は、パーソナリティ分析によって、恋愛のプロセスや未来をある程度予測し、その対処を助けようとすることを目的としている。

実際、パーソナリティのタイプによって、恋愛の仕方やパートナーの選び方には、ある傾向があるだけでなく、二人がどういうパーソナリティ・タイプの組み合わせであるかによって、恋愛がどういう道行きをたどりやすいかが、かなり高い確度で、しかも比較的容易に予測できるのである。そこには、一定の法則性があり、それを知っていると、恋愛の結末を、おおよそ見通せるだけでなく、どうすれば、幸福な恋愛に育んでいけるか、生じやすい危険は何なのかについても予め知り、対処しやすくなるのである。

恋愛がうまくいくのもいかないのも、恋愛が本物の愛情に育つかどうかも、互いのパーソナリティの組み合わせに起因する部分が大きいのである。いわゆる相性と考えられているものは、二つのパーソナリティの組み合わせによって、ほぼ決定される。一人のパーソナリティだけでなく、そこに、もう一人のパーソナリティが絡み合うことによって、問題はより複雑になるが、二つのパーソナリティが生み出すダイナミクス(動力学)を知ることにより、その恋愛がたどる道筋も、陥りやすい危険な落とし穴も、それが幸福なものとなるために必要な条件も見えてくるのである。

本書は、真面目に恋愛を考えている人のために、精神医学や臨床心理学が長年培ってきた経験知を結集したものでもある。本書では、パーソナリティ分析の方法に基づきながら、ケーススタディや伝記的な研究により今日まで蓄積してきたものから、多くの具体例を盛り込み、個々のパーソナリティ・タイプやそれぞれの組み合わせに合った恋愛の客観的指針を明らかにしていきたい。

本書を読み終わる頃には、あなたの恋愛観は大きく変わっているはずだ。どんなふうに恋愛をすればいいのかわからなかった人も、この人でいいのか迷っている人も、今のパートナーと別れるべきかどうか悩んでいる人も、そこに一つの答えが見えてくるはずだ。それを、どう活かすかは、あなた次第である。ただ言えることは、あなたの期待や思惑に関係なく、一つの客観的な基準が与えられるという点で、心強い味方になってくれるということである。

本書で提示するパーソナリティ分析は、あなた自身のパーソナリティや相手の人のパーソナリティについて、気づきを与えるだけでなく、両者の組み合わせがどんな結果をもたらしやすいか、また、それに対して、どんな手だてを取り得るのかについても、重要な気づきを与えるだろう。ただ、あくまで、本書は、恋愛という観点に絞って書かれたものである。各パーソナリティ・タイプについて、もっと詳しく知りたい人やパーソナリティの偏りによって起きる問題について、もっと学びたい人は、拙著『パーソナリティ障害』などを参考にしていただきたい。

執筆に当たっては、女性の視点も入れて描いていくために、恋愛・結婚カウンセラーの方にも一部協力していただいた。限られたページ数の中で、伝えたいエッセンスをできるだけ理解して貰えるように、構成に工夫を凝らした。全体像がわかるためにも、自分に関係があるところだけでなく、本書全体を、読み通されることをお勧めする。それによって、あなたは、個人的な枠を超えた恋愛のメカニズムについて、より大きな視点を得られるはずである。

 

恋愛はハイリスク・ハイリターンな賭けである

伴侶を選ぶことは、自分の人生すべてを投資するようなものである。「悪妻は六十年の不作」とも「悪夫は、百年の飢饉」とも言われる。不幸な恋愛は、生涯の不幸をもたらしかねないばかりか、子や孫の代にまで影響を及ぼしかねない。もしあなたが全財産を投資するとしたら、投資先を慎重に選ぶに違いない。利回りや安全性、将来性を、よく調べ抜いた上で、投資先を決めることだろう。伴侶選びは、全財産どころか、あなた自身やあなたの将来までも、すべてを投資する相手を選ぶようなものである。当然、よく研究して、慎重に判断しなければならないのだが、実際には、一瞬の感情で相手を選んだり、成り行きに任せてしまったりすることも少なくない。逆に、慎重になりすぎて、本当は、理想的な相手に巡り会っているのに、やり過ごしてしまうという場合もある。選ぼうにも、何の客観的な判断基準もないため、選べば選ぶほど、誰がいいのかわからなくなってしまうといったことも起きてくる。

だが、素晴らしい伴侶にめぐり会うことは、それまでの暗かった人生を、がらりと変えてしまうほどの幸福をもたらす。世界的に有名な心理学者のエリクソンとその妻となった女性ジョアンナ・サーソンの例をお話ししよう。

エリクソンは、アイデンティティ(自己同一性)の概念を打ち立てた人物で、二十世紀の知の巨人の一人に数え上げられる存在である。しかし、エリクソンは、大学教育さえ受けていない。青年期までのエリクソンは、家庭でも学校でも、ずっと問題児扱いされていた。義理の父親とうまくいかなかったこともあって、家に居場所がないと感じていた。画家を志したものの、絵の才能にも限界を感じ、各地を放浪する生活をしていた。

一方、カナダ出身のジョアンナもまた、家庭では問題児だった。実の母親とうまくいかず、顔を合わせるとケンカが始まるという具合だった。ジョアンナもまた、家を離れ、遠くウィーンに演劇の勉強にやってきていた。エリクソンが教師として働いていたフリースクールのような学校に、ジョアンナが仕事を求めて訪れたのである。自分の家にも故国にも居場所のなかった二人は、こうして出会い、恋に落ち、やがて結婚する。今で言う、できちゃった婚だった。「問題児」同士が、一緒になって、まともな家庭など築けるわけがないと思うかもしれないが、二人は、理想的とも言える幸せな家庭を営んだのである。そればかりか、学歴も後ろ盾もないエリクソンが、ジョアンナの支えによって、世界的な成功を収めていくのである。

二人のケースは、自分にふさわしいパートナーと居場所を見つけることが、その人の幸福と能力発揮にとって、どれほど大事であるかを物語っている。関わる相手によって、ダメ人間やふしだらな女とされていた同じ人物が、素晴らしい夫や妻、尊敬され愛される人物にもなるのである。

もちろん、その逆もある。どちらも、たくさんの長所をもち、青年期まで輝いていた二人が、晴れて一緒になったというのに、どちらも別人のように輝きを失い、魅力のない存在になり、ついには、精神を病んだり、家庭が破綻したりという不幸な結果に終わることもある。恋愛、そして伴侶選びは、ハイリスク・ハイリターンな賭だとも言えるのである。

 

恋愛状態の脳は、狂気と紙一重

 しかも、恋愛をさらに危ういものにするのは、恋愛の持つ非理性的な、狂気に近いパワーである。恋をすると、人の脳は高揚状態になる。その正体は、脳内に放出されたドーパミンと呼ばれる神経伝達物質やエンドルフィンのような脳内麻薬、ステロイドホルモンや神経ペプチドの放出増加である。覚醒剤の注射やコカインの吸引によって脳に放出され、脳内の濃度が増加するのもドーパミンである。ドーパミンは覚醒作用を持ち、脳を活性化させる。そのため、恋をし始めると、普段より早く目が醒めるようになる。睡眠時間が短くなり、活動的によく動き回り、よく喋り続けるが、あまり疲れを感じない。普段は無粋な人物も、詩心が芽生えて、ロマンチックな言葉を書き連ねたりする。恋が始まったときの、甘美で天にも昇るような気分は、脳内に増え始めたドーパミンや脳内麻薬がもたらす陶酔と高揚状態による。

 しかし、その状態が長く続くにつれて、人の脳はくたびれてくる。次第に疲れが溜まってくるのだ。冴えすぎた神経は、次第にイライラしやすくなったり、訳もなく悲しくなったり、楽しいはずなのに、暗い気持ちになったりということが起こり始める。

 その状態は、覚醒剤やコカインといった薬物を使用したときと似ている。最初は、これまで味わったことのないような心地よさに満たされるが、使い続けるうちに、最初ほどの幸福感は薄れ、逆にイライラしたり、急に気分が不安定になったり、薬のことしか頭になくなったりするのである。それと同じように、会っても最初ほど満たされないが、一緒にいないと落ち着かないという状態を呈してくる。

 恋愛状態の脳は、ドーパミン中毒を起こした薬物中毒の患者と似ている。薬物中毒の患者であれば、薬さえ手に入れれば目先の満足は得られるが、恋愛の場合には、相手は人間である。思い通りに、デートに応じてくれなかったり、愛情を返してくれなかったり、欲望を満たしてくれない。そうなると、普段は理性的できちんとした人も、狂ったようになってしまうということも起こる。

 言ってみれば、恋愛状態の脳とは、狂気と紙一重である。恋愛がきっかけで、精神的な病気が始まることも珍しくないが、脳の中で起きていることを考えると、無理からぬことなのである。

 恋愛は、これほど狂おしく、尋常ならざる状態に人を置く。ある種の異常心理状態とも言える。通常とは違うように行動することも珍しくない。そういう危うい状況で、人は人生を左右しかねない選択をしなければならない。だから、なおのこと、判断を誤りやすいのである。

おまけに、恋愛は相手がいる話である。こちらは平静でも、相手だけ狂気じみた状態になるという場合もある。相手の性質を見誤ったばかりに、命を奪われてしまうということも起きかねない。身を誤らないためにも、普段から自分を見つめ、相手を見極める目を磨いておかなければならない。相手の魅力にばかり溺れずに、危険な性質にも注意を注ぐことも必要である。そうした側面についての知識を備えておくことは、陥りやすい危険から身を守る上で役に立つ。

 

 自分という殻を超える瞬間

それにしても、恋愛をすると、人はなぜそんな状態になってしまうのだろうか。人が人を愛するとき、狂気と紙一重の状態へと、なぜ駆り立てられねばならないのだろう。神はなぜ、そんな危険な状態に人生の重大事を委ねる仕組みを作ったのだろう。不思議に思われるかもしれないが、それにはそうならなければならない必然性があるのだ。

人が人を愛するという行為は、自分がまとった社会的な仮面を脱ぎ捨て、真っ裸になる営みでもある。自分という存在が、もう一人の別の存在とつながり合うためには、自分の殻を打ち破らねばならない。自分という枠を超えて、相手を求めねばならない。いわば自分という檻を飛び越せるだけの跳躍力が必要なのである。そのためには、日々の日常と同じ平穏な状態では、無理なのだ。

ベルグソンという哲学者は、人間が生きる行為の本質は、「生の跳躍(エラン・ヴィタル)」にあるとしたが、生の跳躍の至高の瞬間は、自分を超え、愛する人と一つになる瞬間である。しかし、跳躍するためには、地面を離れなければならない。今まで確かなものとして守っていたものを、踏み台に蹴って、あてどのない空中へと身を躍らさなければならない。それは、どこへむかうともしれない賭けであり、一つ間違えれば、身を誤るかもしれない。けれども、その一か八かの賭けに踏み切ることができなければ、生の跳躍は起こらず、恋愛が成就することも、新たな人生のページが開かれることもない。思い切って、慣れ親しみ、確かで安全な状況を振り捨てる勇気をもつことも求められるのだ。

「跳ぶのが怖い」という状況は、その賭けに踏み切れずに、今までの自分にしがみついている状況をさしている。恋愛に醒めすぎている人では、我を忘れることができない。そんな人にとっては、これまでの自分から自由になろうと身を躍らす勇気も必要になる。

 つまり、恋愛という行為は、一方では、勢いをつけて、身を投げ出す勇気が必要なのだが、同時に、身を預ける相手を間違わないだけの理性と計算も忘れてはならない。感情と理性のギリギリのバランスを取る行為なのだ。

恋愛状態が狂気と紙一重ともいえる脳の状態を引き起こす以上、そこでは、日常的な世界では起こりにくい、さまざまな危険も待ち受けている。それを、予見して行動できるかが、結果を大きく左右するのである。

 

 必要な客観的な指針

正しい相手を選択し、幸福な関係への一歩を踏み出していくためには、自分と相手の関係を客観的に眺める判断基準が必要である。それによって、自分の恋愛にも見通しをもち、期待値とリスクを推し量り、失敗のリスクを減らすことができる。

ところが、現実問題、十代、二十代の若者だけでなく、三十代、四十代になっても、恋愛というものがどういう仕組みで始まり、動いていくのかということについて、多くの人は、極めて一面的な知識しか持ち合わせていない。かなり運任せに、我が身を委ねてしまうことも多い。新たな一歩を踏み出したと思ったのに、気がついてみたら、まったく同じ失敗をしていたということもありがちだ。

恋愛について、一角のことを経験してきたつもりの人も、自分だけの狭い体験で見ているに過ぎないため、実際には死角だらけである。誰もが、自分の人生を必死に生きているのだから、それは当然のことである。他人がどんなふうに感じ、どんなふうに行動し、恋愛をするのかまで、考えている暇はない。だが、恋愛においては、自分だけでなく、別の意思や人格をもった相手が存在するのであり、まさにその点が重要なのである。自分の視点でしか見えていない限り、客観的な見通しを得ることも、相手がどう感じているかを読み取ることもできないのである。

相手があってこそ成り立つ恋愛は、いくらこちらが努力しても、うまくいかない場合もある。うまくいかないのは、こちらのやり方が悪かったとか、努力が足りなかったとかといった問題だけではない。本人が、まったく気づいていない何かが食い違ってしまっているのである。人間と人間の出会いを左右し、それを実りあるものにしたり、不幸のどん底にたたき落としたりするもの、それは、運命としか呼べないものなのだろうか。

パーソナリティについて研究する中で、気づかされたことの一つは、人々が「運命」と呼ぶものが、実は、天が定めたものでも何でもなく、自分自身のパーソナリティの偏りが作り出したものだということである。恋愛における「運命」もまた、然りである。そのことを理解し、適切に対処する術を学ぶことが、占いに一喜一憂したり、「運命だ」と嘆いたりせずに、幸福な人生を手に入れる、もっとも着実な方法なのである。

 

第一章 パーソナリティの偏りと組み合わせが、恋愛の「運命」を左右する

 

性懲りもなく同じ失敗を繰り返すのは、なぜか?

男運が悪いとか、女運が悪いと言って、嘆く人がいる。あるいは、なかなかいい人に縁がなくてとか、出会う機会がなくてと、こぼす人も少なくない。また、好きになっても、いつも片想いばかりでと、恋愛が成就しないと諦める人もいる。どうして、うまくいかないのだろうか。実は、こうしたケースには、共通する問題がある。

男運が悪いとか女運が悪いとか、運のせいにしている人の話をよく聞いてみると、同じようなタイプの相手ばかりを、性懲りもなく選んでいることが多い。本人は、相手が変わったのだから、今度こそ幸福が待っているのではないかと思い、新たな関係に入るのだが、相手が別人になったというだけで、相手の本質的な部分が同じであれば、また同じようなことが起きてしまう。

つまり、相手を見分ける目がなければ、同じような相手を選んでいても、自分では、新しいタイプの人を選んだ気になってしまうのである。

出会いのチャンスがなくてとか、片想いばかりでと、嘆いている人の場合も、大きな錯覚がある。出会いに恵まれている人は、たまたま、いい人と出くわす機会が多く、良縁が殺到し、出会いがない人は、自分を好きになってくれる人が目の前に現れないというような錯覚である。実際には、出会いの多い人は、自分からアクションを起こして、網を仕掛けている人なのだ。どんなに美しく魅力的な人でも、網を仕掛ける術を知らなければ、意中の人を捕まえることは難しい。寄ってくるのは、歓迎できない相手ばかりだということもある。その見分けがつけられないと、どんなに魅力や才能に恵まれていても、不釣り合いな相手に、自分を安売りしてしまう。ましてや、釣り糸も垂らさずに、バケツの中に、ふさわしい人が飛び込んできてくれるようなことは、何十年待っていても起こらない。

片想いにばかりなる人は、自分にふさわしい相手とふさわしくない相手を見極めることができていない。どんな素晴らしい人であれ、自分の価値をわかってくれる人に売り込まなければ、恋愛は成立しない。わざわざ不向きな相手に、間違ったアプローチの仕方をしているのである。

ところが、恋愛がうまくいかない人は、いつも同じようなパターンを繰り返してしまう。それはなぜなのだろうか。

 

偏りが同じ軌道を歩ませる

人は自由意思をもつ存在である。何事にも縛られずに、自由に考え、決断し、行動することができるはずだ。しかし、現実は違う。感じ方や考え方も、決断や行動の仕方も、実は知らず知らず、意識しない何かに縛られているのである。

本心とは違う選択をしてしまったり、一番望んでいることを、最初から諦めてしまったりすることが何と多いことか。また、あんなに後悔したはずなのに、また同じような失敗をしてしまうこともしばしばだ。人は、幸福な人生を願いながら生きているはずなのに、わざわざ幸福を遠ざけてしまうような生き方を、わざわざしてしまう。そんなとき、「所詮、運命なのだ」と、諦めの言葉をつぶやきたくもなる。だが、本当にそうなのだろうか。

空にある星や太陽は、地球の周りを回っているように見える。三百年余り前まで、人々は、天が地球の周りを回っていると堅く信じていた。いわゆる天動説である。そこにコペルニクスという人物が現れて、動いているのは、地球の方だという地動説を唱えた。コペルニクスは人々を惑わしたかどで、磔にされて、焼き殺されてしまった。けれども、今では、誰もがコペルニクスが正しかったことを知っている。

この天動説という誤謬(誤った認識)は、本当は自分に原因があるのに、周りに原因があるように見えてしまう典型的な例である。運命というものも、この天動説によく似ている。天によってわれわれの人生が動かされているという運命論も、天動説と同じ誤謬の結果なのである。「運命」のように見えるが、実際は、われわれ自身に原因があるのだ。

私がこのことをはっきり認識するようになったのは、パーソナリティ障害の臨床や研究においてである。あるタイプの人は、同じような人に出会い、同じような騙され方をして、同じような結末を迎えることを、何度でも繰り返していた。また、別のタイプの人は、大恋愛をして、結ばれるのだが、相手を裏切って別れるということを繰り返していた。また、別のタイプの人は、愛すれば愛するほど、相手を縛ってしまい、いつのまにか暴力をふるってしまうということを繰り返していた。さまざまなタイプがあるが、それぞれの人の心に備わっている偏りが、同じような出会いと展開を招き寄せ、同じような結末を迎えるということを繰り返していたのだ。

磁石をもたずに砂漠をどこまでも歩くと、やがて同じところに戻ってきてしまうという。左右の足の長さの微妙な違いによって、まっすぐ歩いているつもりでも、いつしか巨大な円を描いてしまうのである。それと同じように、われわれの心と行動の偏りは、われわれが知らないうちに、同じような人生行路を歩ませてしまう。何年も経ってから振り返ると、また同じことをしていたと気づくことになるわけだ。

運命と見えたものは、実は自分自身のパーソナリティの偏りが生み出した、巨大な円なのである。同じところを何度も歩きながら、「これが、自分の運命だ」と嘆くのは愚かではないか。まっすぐ進んでいくために必要なのは、確かな方位磁石と地図、つまり客観的な指針なのだ。あなたの顔色をうかがいながら、あなたをがっかりさせないように与えられた、玉虫色のアドバイスでは役に立たない。もっとはっきりと、あなたは、こういう方向に曲がっていきやすく、こういう危険に陥りやすいと、客観的に教えてくれる指針が要る。それによって、自分の偏りを認識し、それを修正する術を学んでいけばいいのである。

 

パーソナリティは、一つの様式(スタイル)である

人はそれぞれ固有の認知、感情、行動の様式をもっている。この持続性をもった様式は、十八歳を過ぎた頃には、ほぼ固まってくる。この認知、感情、行動の様式のことを、精神医学や心理学では、パーソナリティ(人格)という。

責任感がとても強い人もいれば、とてもいい加減で、都合が悪いことは、すぐに人のせいにする人もいる。自信たっぷりの人もいれば、自信がなく、いつも失敗するのではないか、人から非難されるのではないかと恐れている人もいる。人付き合いが活発で、コミュニケーションを楽しむ人もいれば、一人でいる方が気楽で、必要以外はあまり口を利きたがらない人もいる。

こうしたそれぞれの特性が組み合わさって、一つの人格が作られるが、ここ一世紀ほどにわたる多くの先達の研究からわかってきたことの一つは、そうした特性は、ランダムに組み合わさるわけではなく、結びつきやすい性質があって、それぞれ纏まりを持った、いくつかのタイプに分かれるということである。臨床的な研究だけでなく、疫学的、統計学的な研究により、検証が重ねられてきた結果、大きく分けて十タイプくらいがあるということで、決着がついてきている。

パーソナリティのおよそ半分は、生まれつき持った気質であり、遺伝的要因により決定される。後の半分くらいは、後天的に身につけた性格であり、環境的要因に左右される。両者が混じり合って、パーソナリティというものが出来上がっている。

一旦出来上がると、これは、そう簡単には変えられない持続性と構造的安定性をもっている。鳥は空を飛び、獣は地を駆け、魚は水中を泳ぐように、それぞれ生き方のスタイルというものをもっている。パーソナリティについても、同じことが言える。生物学的な特性と、心理社会的な学習の結果身につけた認知、行動レベルの反応パターンがぴったりはまり合うことで、堅固な様式が出来上がっている。

たとえば、几帳面で、潔癖で、責任感が強いが、妥協が苦手であるといった一連の特性をもった強迫性パーソナリティでは、固執性という遺伝的に決定される気質と後天的に身につけた自己超越(自分よりも集団への貢献を優先する傾向)という性格特性が合わさって成り立っている。固執性と自己超越の両方を満たす人生の基本戦略として、このタイプの人は、秩序維持戦略という生き方の方針をとるパターンが出来上がっていくのである。

過剰な自信、傲慢で尊大な態度、他人を当然のように利用し、他人の痛みには無関心な傾向、賞賛に対する欲求といった特徴をもつ自己愛性パーソナリティでは、損得で動く傾向が強い報酬依存という気質的要素と、自己志向という後天的な要素の強い特性が合わさっている。報酬依存と自己志向の両方に叶った戦略として、自己を絶対視し、他人を見下すことで、自分を守ろうとする自己愛的防衛戦略という生き方を身につけている。

もって生まれた気質、後天的に身につけた価値観や考え方、さらに行動の戦略の三者が、緊密にはまり合うことによって、そう簡単には変わることのない構造を作り上げているのである。それが、パーソナリティである。

 

パーソナリティによって、恋愛のスタイルも変わる

一人一人の認知や行動のスタイルには特有の癖があり、また、その人その人で、何に価値を置くかという点も異なっている。認知や行動のスタイルが違えば、恋愛の仕方も違ってくる。価値観が違えば、話をしていてもどこか食い違ってしまう。

価値観というものも、パーソナリティのタイプによって、おおよそ決まる。愛情を第一に考えるタイプもあれば、利益や損得を第一に考えるタイプもある。理屈に合うかどうかを第一に考えるタイプの人もいるし、義理人情や世間体を何よりも重視する人もいる。自己実現に重きを置く人もいれば、家族や組織のためなら、責任に殉じようとする人もいる。どれが良いとか悪いとかというのではなく、それぞれの人格によって大切にするものが違うということである。

それは、米を主食にするか、パンを主食にするか、イモやトウモロコシを主食にするかといった生活習慣の問題とほとんど同じである。自分と同じように、愛情を第一に考えてほしいと思ったところで、米が一番美味しいと思っている人に、イモを毎日食べさせようとしても、もう飽きたと言われるだけである。

気質の違いも、恋愛の仕方を大きく変える。新奇性探求の高い人は、次々と新しい刺激を求めようとするし、固執性の強い人は、ねちっこく一人の人に執着する。損害回避の強い人は、周囲の勧める無難な相手を選ぶだろうし、報酬依存の強い人は、恋愛といえども、打算抜きには考えられない。

行動のスタイルが異なるように、求愛行動のやり方も、それぞれ異なる。相手の気を惹こうと、見事な羽を広げる者もいれば、甲高い声で鳴く者もいる。餌で相手の油断を誘う者もいれば、真っ赤になったお尻を見せる者もいる。パーソナリティのタイプによって、好まれる求愛の仕方も異なるのである。相手に合わない行動スタイルでアプローチしようとしても、相手は当惑するだけである。

パーソナリティによって、生き方も違えば、恋愛の仕方や愛情の様式も違うのである。パーソナリティのタイプが見抜けるようになれば、その人が、どういう愛し方、愛され方を好むのかが、わかってくる。ハートを射止めるために、どんなふうなアプローチが有効なのか、愛情を育む上で、何がポイントで、どんな落とし穴が待ち受けているのか。どうすれば、それをうまく避けることができるのか、といったことも予測がつくようになるのである。

行動や認知(受け止め方)の癖を知り、価値観や生き方のスタイルを理解した上で、ふさわしい相手を選び、ふさわしい愛し方をすることは、充実した愛情生活や豊かな人生を手に入れるチャンスを増やすのである。

 

自分自身を知れば、相手も見えてくる

パーソナリティ分析は、パーソナリティのタイプや特性を知ることによって、その人の行動や心理を理解し、より適応的な対処を導き出す手法である。二つのパーソナリティの間にそれを適用することによって、対人関係をより立体的に、深く理解し、生じやすい問題を未然に防いだり、改善に役立てることもできる。

しかし、自分は心理学や精神医学の専門家でもないし、パーソナリティのタイプを見分けることなどできるだろうかと、心配されるかもしれない。生まれ月や血液型で、タイプがわかるという単純なものでないのは確かであるし、それなりに、知識と人間観察力を養ってもらう必要はあるが、それを学ぶこと自体が、あなたの人間に対する目を養っていくことにつながる。タイプを見分ける上で、手がかりとなる特徴を具体的に説明してあるので、よく読んでいただければ、あなたも、段々とパーソナリティ・タイプを見分けられるようになる。普段は、些細なこととして見逃していたことが、実は、とても重要な意味を持つサインだったこともわかるだろう。何気なく相手が示すサインを、少し気をつけて見ているだけで、あなたは、相手のタイプが見抜けるだけでなく、どういう心の動きや行動の仕方をする人なのかが、おもしろいくらいに見えてくるはずだ。少々カモフラージュして、別人を演じているような場合でも、ふと漏らす一言やちょっとした特徴で、それほど苦労せずに、相手の正体を見破ることができる。もちろん、実践を積み重ねていけば、人物眼はいっそう磨かれていくだろう。

それでも、不安だという人のために、簡単にパーソナリティのタイプをチェックできるシートを用意した。本文の内容と合わせて、ご活用いただきたい。

最後にもう一つ、大事なことを述べたいと思う。それは、他人を知るためには、自分自身を知る必要があるということである。本書を、自分自身を知るためにも、活用して欲しい。自分自身をよく知ることができるようになると、自分をコントロールできるようになり、相手のことも、冷静な目で見ることができるようになる。自分自身の偏りを自覚することによって、歪んだレンズではなく、まっすぐなレンズで相手を見ることができるようになり、幻ではない、相手の客観的な姿が見えやすくなるのだ。

自分のパーソナリティと相手のパーソナリティが把握されると、二人の間で起きていることが、何なのかが、その正体がわかってくる。

対人関係と同じように、恋愛には、相性があるわけだが、その相性とは、二つのパーソナリティの組み合わせによって決まるものである。パーソナリティとパーソナリティの相性についても、本書は、かなりのページ数を費やして、具体例をまじえながら説明してある。相性について学ぶことで、いっそうパーソナリティというものへの理解も深まり、何よりも、あなたの恋愛の実践に役立てることができるだろう。

 

本書を活用するために

本書では、パーソナリティ・タイプの中で、一般に出会うことの多い、九つのパーソナリティ・タイプについて学んでいく。自分のパーソナリティ・タイプはどれかを、よく見極めていただきたい。また、身近にいる人やパートナーやその候補となる人のパーソナリティ・タイプについても理解を深めていただきたい。それぞれのタイプの特徴や背景について説明するとともに、そのタイプの人に、どんなふうにアプローチし、恋愛を発展させていけば、うまく愛されるのか。逆に、このタイプの人が、恋愛をするときに、どういう恋愛の仕方がふさわしく、幸福を呼び寄せやすいのかといったことについて述べていきたい。

さらに、詳しく見ていくためには、もっとも当てはまるパーソナリティ・タイプ(第一のパーソナリティ)だけでなく、二番目に当てはまるタイプ(第二のパーソナリティ)、三番目に当てはまるタイプ(第三のパーソナリティ)についても見ていく必要がある。通常のパーソナリティには、いくつかの傾向が併存しているのが普通である。第二、第三のパーソナリティまで把握することで、自分や相手の全体を、より深く多面的に理解できるのだ。それぞれのパーソナリティは、同時に併存している場合もあれば、時と場所によって、また、相手によって、不連続に出現することもある。対人関係において、一つの戦略がうまくいかないときには、別の戦略が姿を現すのである。この点を理解しておけば、相手の態度が変化しても、戸惑うことなく対処できるし、上手に愛するためにも、その人の重要な構成要素を、きちんと押さえておくことが必要なのだ。

こうして、パーソナリティにあった恋愛の仕方について学んでいただいた上で、さらに、それぞれ異なるパーソナリティの組み合わせごとに、その相性やたどりやすい運命、気をつける点などについて、具体例をまじえながら説明していきたい。怖いほど「当たる」と思われるだろうが、それは、「当たる」のではなく、塩酸と水酸化ナトリウムを混ぜたら、食塩になるという事実を述べるのと同じように、組み合わせの結果を経験科学的に述べているに過ぎない。爆発する危険のある組み合わせや、何の反応も起こらない組み合わせがあるのと同じように、パーソナリティ同士の組み合わせにも、激しい反応を起こすものから、混じり合わない組み合わせまで、さまざまなのである。

もっと細かく見ていくために、お互いの第一のパーソナリティだけでなく、第二、第三のパーソナリティとの相性も見ていくとよいだろう。どういう部分で、衝突や行き違いが起こりやすいか、安定した愛情を築いていくには、お互いどういう部分を引き出し、生かしていけばいいのかが、より詳しく見えてくるはずである。


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